最終話「辿り着く場所――the end of world. And ......」――――  過去を思い出す。  もう、自分が何者か、何をしたかったなんて、もうあまり覚えていないけど。どこか、透明な場所から、 空へと昇るように、過去の記憶が湧き上がってくる。それはきっと……  シャボン玉のように膨らんだ、夢幻の恋人――    何かすごい事をしたかった。闇を切り裂く聖剣を持ち、星を落とす魔法を唱え、悪しき魔王を倒す……そ んな凄い事を。それは物心がつく前からのもはや無意識ともいえる自分の夢で、自分の生き様はその為にあ るといってよかった。自分はその為になら何でもやった。子供のころの自分は何でも出来た。何故なら、出 来ないという事を知らなかったから。  自分は努力した。何かよく解らないすごい事をしたいが為に。  けど、やがて、出来ないという事を知った。   人は空を飛べない。この世界に魔法はない。漫画やアニメみたいな事などありはしない。もしあったとし ても自分は主人公になどなれやしない。そもそもこの世界に敵などいない。どうしようもなかった。どうし ようもなくどうしようもなかった。だって、何をすればいい? 魔法? 空を飛ぶ? どうやって? 信じ れば夢は叶うのか? それなら今頃、神様くらいいるはずだ。けどいないのが現実。コレが現実なのだ。  でも、それでも諦めきれなかった。何か凄い、バカげた、カッコいい事をしたかったから。それが自分の 心意気だから。何故かは解らない。けど、無性に憧れていた。何か凄い事をしたい。それだけが、自分の生 きる唯一の意味であり目的で、だから、諦めるわけにはいかなかった。それが、唯一、自分が愛せるモノな のだから。その夢を諦めていまえば、もう、この世界に留まる理由が無くなってしまうから。だから、そん な事はありえないと思いながらも、それでも努力した。それもまた、その他大勢の一人の行いとは知ってい たけど、どうしようもない事はもう解っていたけど。それでも気付かないふりして、無理に頑張った。どう しようもないと解っているくせに、それでも夢だけを見つめてただ走った。  それはまるで呪いだった。  夢見るあまり夢見いられ、憧れる故に愛焦がれる。愛おしむ程にいと惜しくなり、しかし願いは寝返えら れる。想いは縛る重りとなり、描かれた夢は絵が枯れ果てて、何時しか自分は何者でもなくなり、そしてそ のまま消えて逝くだろう。  夢とは呪いだった。気付くのが遅かった。  そしてふと気付いたときには、自分はどうも生き辛くなっていた。  ぼんやりとした、とりとめのなさ。  現実から一歩引いた、浮遊感。  漠然とした、やるせなさ。  茫洋とした、わからなさ。  何となくの、ツマラナさ。  対象のない、空回り具合。  交わらない、平行線。  この世界との、ズレ。  独りで見飽きた、それもモノクロでサイレントな映画を、焦点の定まらない眼で見ている、そんな感覚。 己の意思などない、痛みの無い、摩擦の無い、ゴムのような質感を持った、走っても走っても進まない、自 分視点の夢を見る感覚。  生きてるのか終わってるのかも判りやしない。  まるで生ける屍だ。それでも、何となく生きている。。どんな不幸でも、それなりに生きている。それは とても恐ろしく、とても空しい。夢がそうであるように、痛みの無い生は、とても空しい。  いや、解っている。解っているんだ。ちょっと小奇麗な言葉で着飾って見せたけど、所詮、これは子供の お遊びだ。自分の生きている場所はここではないと、バカに気取っているだけだ。こんなのはありふれてい る、その他大勢な暇人の考えだ。他人に言わせれば、ただ甘えているだけの怠け者だ。そんな気取ってたっ て、現実は容赦なく自分を大人にする。神はいるのかと問いを発するのは結構だが、しかしそんな問いは見 向きもされず、今日も世界が廻っているのが現実だ。神がいてもいなくても、夢があろうがなかろうが関係 ない。空を飛びたいとか魔法を使いたいとか思っている人は一杯いるし、そんなの気にせずに生きている人 だって一杯いるし、夢を諦めて夢を代用してそれなりに幸せに生きている人は一杯いるし、夢を諦めても別 の夢を目指して一生懸命生きている人も一杯いる。そしてその人達が駄目かと言えば決してそんな事はあり やせず、実際、夢ばかり見てる自分より、彼らの方がよっぽどマシだろう。。なのに自分だけが特別だなん て、おこがましいにもほどがある。こんな考えなんて、ろくなもんじゃない。夢を諦めようとして、それで も諦めきれずして。地に足を付けずに生きているだけだ。ただの遊び人だ。無色だ。ガキの大人だ。ふらふ らと何もせずに生きている。  そして何時しか、自分は努力する事に疲れてしまった。それでも、夢は諦めきれなかった。諦めてしまえ ば、こんなに幸せな事は無いだろうに。それでも、諦める事だけは出来なかった。  そうしていると、何時しか、嫌いなものが無くなった代わりに、好きなものも無くなった。  どんな場所にいてもそれなりに楽しめて、どんな人とでもそれなりに仲良くなれて、どんな食べ物でもそ れなりに美味しく食べれて、どんな漫画やアニメもそれなりに面白がれて――そんな風に、自分にとっての 一番はまるでなく、どんな時でも場所でもそれなりに楽しめる代わりに、特別な一番というものもまた無く なった。器用貧乏ならぬ、幸福貧乏というのか。戦争の無い日常に感じ取れる平和はないとでもいうのか。 それが幸福な事なのか不幸な事なのか、それは解らない。  でも唯一つ、恐怖があった。何故なその生き方は、その他大勢の生き方そのものだったから。夢を諦め、 夢を代用して、その他大勢のように、それなりに幸せに生きている。まるでエサをもらう家畜のように、行 き当たりばったりの幸福に溺れる。特別なものなど何も無く、流されるままに生きて、何時の間にか漂流し ている事にさえ気づかない。  それは緩慢なる終。魂無しに動くモノ。  自分は絶望した。夢を忘れていくことに。  自分は泣いた。それでも夢を忘れきれない事に。  不幸があるとすれば、唯二つ、ソレ。覚めない夢を見てしまった事。そして夢を忘れきれない事。  せめて叶え得る夢ならば、こんなにも追い求めたりはしなかっただろうに。忘れてしまえば、こんなに楽 な事はないだろうに。夢しかない自分が、夢を忘れる。それでも夢を忘れきれず、見えもしない夢を追う。 まるで夢遊病のように。無何有郷を目指す旅人のように。  それはきっと、生ける屍。  決して現実にはなりやしない、覚めない夢の中をただ歩く。何もない、荒野の中をただ歩く。何時しか、 絶望さえも感じなったとしても。辿り着く場所がなかったとしても。  そんな人生。そんな生き方。そんな自分。どうしてだろうか、こんな自分になったのは。  恐らく、自分は、ずっとこうして生きて逝くのだろう。自分はずっとこんな生き方をして、何者にもなれ ずに終わっていくのだろう。  夢は決して叶えられず、夢を代用する事さえできもせず、それでも夢見る事は止められない。  だから、自分は飛ぼうと決めた。今、境界線を越え、この世界の向こう側へと辿り着く。  あの空を越えて。  さあ、きみ。応えてくれ、この偽りに。  空を飛ぶ魔法は無く。敵を倒す聖剣は無く。星は願いを叶えてくれず。護るべきものは無く。生きる為の 目的は無く。来るべき終は避けられず。  そんな世界で生きて、君は、何を語るというんだ。 「そして、君は語ってくれた」  ありがとう。  何て事の無い日々だったけど。  君のおかげで、ほんの少しの間だったけど。最後の日々は………… 「――待って!!」  鋭くなる風の音に、人の声が乗る。それは悲しい音色。 「なんで……どうして……」  空が夕焼け色に染まっている。紅い。淡い光。人を憂う、悠の光。その空を、ひゅー、と音を立てて駆け るのは、冬の風。冷たく、鋭く、けど、心地良い。光と風。それは旋律。この世界の音。それは交わり、冷 たく、優しく、空を渡る。 「どうして、君がそこにいるんだっ!」  そこは空と地面の境目。世界の境界線。この線を一歩越えれば、もうそこは別の世界。向こう側の世界。  コチラはそこにいた。屋上の隅っこ。今にも折れそうな柵の向こう側。わずか五十pにも満たない狭い足 場。下から風が吹いてくる。眼上には、紅の空。眼下には、影となった、黒い大地。  ここが空と大地の境界線。  ここが世界と世界の境界線。  ここを越えれば、例にもれなく、万有引力の成すままに。  一歩踏み出せば、この境界線を越え、世界の向こう側へと辿り着く。  あの空へ。あの空の向こうへ。この世界の向こう側へ。 「どうして……」 「何となくだよ、少女」 「…………」 「どうして生きているんだ? その理由なんてないだろう。なら、飛ぶ理由もまた同じ。いや、生きてると 辛い事がある分、飛ぶ理由の方が多いのかもね。それでも飛ぶ人がなかなか増えないのは、さて何でだろう ね。本能かな。観念かな。恐怖かな。いずれにせよ、自分の意思じゃ無いか。ああ、でもコッチは違うよ。 絶望なんかない。うん、もうないよ。君のおかげで。だから、敢えて理由を言うのなら、それはなんとなく だ」 「……何言ってるのか解らないよ」 「……止めてくれよ、少女。この期に及んで、そんなありふれた事を言うのは」 「…………」少女は、少し黙った。その沈黙は長くなく、次に目を開いた時は、強い意思を感じた。「…… ありふれたと感じるのは、それが君がありふれているからだ」 「ははは。うん、そうでなくっちゃね。でもそうか。ありふれてるか。まあ、そうだろうね」  ……でも、その少女の意思はあまりにも脆く。 「……飛ぶの?」 「ああ、もう思い残すことはない。この境界線を越え、今、世界の向こう側へと行く」  どんどんと、 「あの二人は?」 「知ってる。何だかんだで子供の頃から三バカだからね。あの二人を超える友達は、今生居ないよ、ははは。 最後の最後まで、迷惑かけっぱなしだったなあ」  どんどんと…… 「……どうして」 「別に、今更そんなに不思議がる事はないだろう? 初めから気付いていたんじゃないのかい、少女は。コ ッチが飛ぶためにこの場所に来たって。だから、コッチと一緒に遊ぶ気になったんでしょ」 「……そうだよ」 「……じゃあ、解るよね」 「解らないよ。一緒に遊んで、楽しかったじゃないか。私は楽しかった。君は、楽しくなかったっていうの か?」 「いや、楽しかったよ。とてもね」 「だったら……!」 「だからこそだよ。一番楽しい時に終わりたいんだ。だから、ここでコチラの役は終わりだ」 「でも、そんな……約束したじゃないか! 抜け駆けしないって! 一人で先に飛ばないようにって! そ れに、それに……一緒に遊んでくれるって約束したじゃないか!」 「したね。でも、ゴメン。あれは嘘だ」  あまりに脆く、崩れ去る。 「…………っ!」  ああ、そんな顔しないでくれ。  途端に、少女の顔が歪む。強い意志が消えてゆく。彼女は何時も強がっているけど。でも、こんなにも弱 い。脆い。だから、スキを作らない。弱点を作らない。誰ともいようとしない。誰かが傷つけば、それ以上 に自分が傷ついてしまうから。それ以上に、何もできない自分が嫌になるから。だから、世界に属さない。 世界と関わろうとしない。そうすれば、誰かのせいで傷つくことはなくなるから。誰かを助けられない自分 が嫌にならないから。それは、ひどく自分勝手なのだろうけど。でも、それ以上に優しい。何て、投げやり な優しさ。 「でも、そんな君がいるなら、世界はもう少しだけ良くなるかな」 「……何を言って……」 「ねえ、少女」 「え、何?」 「自分の事は好きかい?」 「いや、そんなの今は……」 「なら、この世界で生きる、自分は好きかい?」 「だから、そんなのは……っ」 「最後に。この世界は、好きかい?」 「聞いてよ!」 「応えて」 「…………っ!」 「自分が、この世界に生きる自分が、この世界が、好きかい?」 「……そんなの、決まってるよ。好きだよ。私を愛してくれる人がいるなら、私は自分をそれだけ愛する。 例え世界が私を愛してくれなくても、私は世界を愛してる。それはきっと、生まれた時から。そして、この 先もずっと……だからっ!」 「なら、もう、コッチに思い残すことはない」 「…………っ!」 「ねえ、少女。ちょっと聞いてくれるかな。自分は、何か凄い事をしたかったんだ。闇を切り裂く聖剣を持 ち、星を落とす魔法を唱え、悪しき魔王を倒す……そんな凄い事を。その為に、色々な事をしたよ。そんな 色々な事やフサや愛歌と過ごす日々もそれなりに楽しかったけど、でも、やっぱり自分がしたいのは、そう いう事じゃなかったんだ。そして、自分がしたい凄い事は、できなかった。空は飛べないし、魔法は使えな かった。それに気づいた途端、もう、生きる意味を見失ったんだ。その夢は自分の心意気で、その夢を代用 する事なんて出来なかったから。その夢を忘れてしまえば、もう自分は終わってしまうから。でも、もう夢 を見る事は疲れた。夢に片思いする事は……もう、疲れたんだよ。そんな時に会ったのが、君だ。この場所 で。飛ぶために来た時、君に会ったんだ」 「…………」 「『ああ、自分と同じような人がいるな』……って思った。そしてその瞬間、ふと思ったんだ。身勝手だと 思ったけど。自分と同じような人を幸せにできれば、自分も、幸せにできるんじゃないかってね。本当、身 勝手だけど。最初は、ただのヒマつぶし程度だったんだ。飛ぶ前に、せめて楽しもう、ってくらいの。でも ……君は思った以上に、良い娘だったよ。とても楽しかった。ありがとう、そしてごめんね」 「そんな……私も、感謝してるよ。君のおかげで、とても楽しかった。私……ううん、違う。楽しいよ。で も、まだ感謝できない。まだだよ。いや、そうじゃなくて。まだじゃなくて。もっと、ずっと君と一緒にい たいんだ。遊びたいんだ!」 「いや、大丈夫だよ。君は本当に良い娘だ。本当に世界を愛している。そうやって世界を愛しているのなら、 何時か、世界もまた、君を愛してくれるよ。大丈夫。君は、強く生きていける」 「……私といるのは、嫌なの?」 「楽しいよ。これは不幸で飛ぶんじゃない。幸福で飛ぶんだ。楽しかったよ。とても。とても楽しかった。 子供の頃を思い出せたよ。それが、単なる物珍しさだったとしても。物忘れだとしても。確信して言える。 今まで生きていた中で、一番、楽しかった」 「だったら……!」 「だからこそ、もう終演だと……潮時だと思ったんだ」 「潮時……?」 「自分はもう、役を演じる事が出来なくなっていた。夢見てたあの頃のように、夢だけを見ることはもう出 来なくなっていた。君といて、とても楽しいと思うようになっていた。それは緩慢な終だ。そうなったらも う終わりなんだ。心意義だから。それを無くす事は、終わるよりも恐ろしい。終すらももうどうでも良くな る。緩やかな終。終わった事すらも気付かずに、ただ歩く。それはきっと、夢遊病。生ける屍……」 「…………私の、所為?」 「思い上がるなよー?」 「ご、ごめんなさい……」 「あはは、素直だなあ。冗談だよ。そういうのも可愛いけど、やっぱり。ライムギ畑で昼寝してるような、 ひねくれてる少女の方が良いかなあ。……君が悪いわけじゃないよ。これはコッチの所為。馬鹿な夢を見た、 カッコつけな自分の所為だ」 「でも……何時か、何時か飛べるかもしれないじゃないか」 「本当にそう思う?」 「……思うよ…………」 「そう。なら信じるといい。でもね。自分はもう、信じられなくなったんだ……」 「でも……」 「それにね。果てしない物語ほど、ツマラナイものはないさ。多分……勝手いうけど、コッチは結構、飽き やすいタイプでね。多分……夢を忘れきれないんだと思う。何でも楽しいと思える代わりに、自分には、一 番なんてものは無いんだ。飽いるほど恐ろしいものもあまり無い。だから、何時か、君のことまでツマラナ イと思いたくないんだ。自分と、この世界をツマラナイと思いたくないから。何時か、夢を見る自分にまで 絶望したくないから。もしかしたら今よりもっと楽しい事があるのかもしれない。でもそれは、きっと…… 君以外で、だ。その寂しさは、もう飽いた。だから、今、ここで幕を閉じなければならない。一番楽しい時 に。  何時か来るその時が、一番の幸福である為に。  何時か来るその時が、せめて、安らかである為に――  だから……ここで終えるんだ。 『さあ、拍手を。劇は終わりだ』、とね」  その言葉に、少女は…… 「嫌っ!」  そう否定した。 「嫌だよっ! やっと、一緒に遊んでくれる人を見つけたと思ったのに! 一緒にいても落ち着ける人がい ると思ったのに! また、いなくなるの? また自分勝手にいなくなるの!? こんな事なら、やっぱり、 誰かと一緒にいるんじゃなかった。ずっと片思いしてればよかった」そう叫ぶ。「どうして……どうして、 そんな勝手なの? 私、どうやって生きたらいいか解んないよ!」 「……ははは」  笑った。 「そう。そう言えば、いやそう言うまでもないけど、そうやって大声上げて叫ぶのを見るのは、初めてだね。 それが本心なのかな。でも、ちょっと、真面目に取りすぎじゃない? それとも興奮してる?」 「ふざけないで!」 「ふざけてないよ。身勝手だろ思うけど、本気で言っているんだ。でも、嬉しいな。そうやって本気で叫ん でくれて。でも、ごめんね。その望みには応えられない」 「嫌だ!」 「まるで駄々をこねる子供だね。……いや、そうか。子供だったか。そう……どうやって生きればいいか、 そうだね」  コチラは、空を見上げて言った。夕焼けを。 「どうやって生きたい?」 「え?」 「どうやって生きたいの?」 「そんなの……解らないよ」 「そう。……でも、その応えは、自分の言葉じゃないといけないよ。言ったじゃないか。  生きる事に意味は無く。だからこそ、自由に生きてもいいんだ。生きねば、という義務はない。神も、言 葉も、世界も、誰も、我々の存在を証明はしてくれず、ましてや意味など与えてはくれやしない。だから。 だからこそ、もし、そんな残酷な世界の中で、生きることに意味があるとすれば。  それは、きっと誰かに与えられるモノではなく――」 「……でも、だからこそ。探してしまうんだ。生きる意味を」 「…………」 「この世界は。ただ茫洋と歩くには、一人で歩くには、広すぎる……」 「……そうだね。広すぎる。この世界は解らないことだらけで、だからそんな世界を生きるのは、強い鎖が 必要なのだろうね。沈んでしまうほど重い、縛り付ける、身動きの取れなくなる鎖が。  ……でも、そんなに、難しく考える必要はないんだよ」 「…………でも」 「それでも、生きる意味が必要だというのなら……幸せに生きればいいんじゃないかな」 「幸せに……?」 「うん、ただ幸せに。そして願わくば、来るべきその日には、こう言って欲しい。『素晴らしき日々だった』 と。きっと、それは素晴らしい事だから」 「"Tell them I've had a wonderful life."……それ、ヴィトゲンシュタインの」 「うん。どっちかっていうと、” Tell me”って感じだけどね」  夕焼けが燃える中、笑顔で、笑っていった。 「何、そんな難しい事じゃないんだよ。  なんの偶然かこの世に生を受けた私たち。その限りある生をどのように捉え、どのように生きていくか。 その問いにはまだ答えは見つからないし、ずっと見つけられないかもしれないけど。でも、ぼんやりと、ほ んの少しだけ思うんだ。  花が可愛いと思った。海が広いと思った。空が綺麗だと思った。風が心地良いと思った。優しさが嬉しか った。生が尊いと思った。誰かがいて良かったと思った。  そして時折、良き世界を思うようになった。世界の幸せを祈るようになった。  人よ、幸福に生きよ。  何、難しい事じゃない。特別なモノは何もいらない。過去も、未来も必要ない。今、すぐにでも出来る、 冴えてなくても、誰にでもできる事。  ただ、笑っていればいい。  音楽とともに楽しく踊って。  ただ、幸福に生きよ、みたいな……。  もう、自分は幸福何て思えないけど。  もう、自分はシャボン玉のように膨らんだ、夢幻の恋人無しには生きられないけど。  もう、自分は偽りを真実に変えようとするのは疲れたけど。  でも、だからこそ思うんだ。  人よ、全ての在りとし在りえるモノよ。幸福に生きよ!  その時になったら、君が語ってくれ。  何時か、私に。  “I've had a wonderful life.”  素晴らしき日々だったと。  そしたら、きっと、私も幸せになれると思うから。  幸せな君を見るたびに、私も、ほんの少しだけ幸せになれると思うから。  だから、私はこう言うんだ。 『さあ、きみ、幸福に生きよ!』  自分が幸せになれない代わりに、君が……。  そう、思うんだ……」 「そんなの……勝手だよ」 「子供だからね」  そしてこれは、きっと呪い。それが、生きた証なれば。 「後、これは出来たらで良いけど。自分の代わりに、自分の夢を叶えてほしいな。まあ、出来ないだろうけ ど。これはあまり無茶しすぎないでね。やり過ぎるとウツるから」 「そんな、事……」 「出来なくてもいい。でも、もしかしたら、君なら……なんて。さあ、そろそろ行くとしよう。今度は、夕 焼けが消えてしまう前にいかなければ」 「……っ! ま、待って……」 「駄目だよ、少女。これ以上はダメだ。シツコイ人は嫌われるよ?」 「で、でも……まだ話したい事が……こんな終わり方じゃ嫌だ……!」 「なら、何時まで言葉を飾ればいい? 多分、それは終わらない」 「な、なら、君が飛んだら私も飛ぶぞ!? 嘘じゃない!」 「いや、君にはもう無理だ。君は飛ぶには強すぎる」  その幸せが呪いなれば。 「そんな、勝手……嫌だ。嫌だよ……」 「強く、幸せに生きてくれ。それが、私の幸せだ」 「嫌だ……嫌だ! 私、私は……君を飛ばせない!」  その力は……とても強い。力で振り払おうとすることは、とても無理だ。それはきっと、力強い意思なの だろう。自分が止めなければいけない、と。しかし、だからこそ、振り解く。小さな力を無理に解けば、そ の小さなモノは力強く振り捨てられ、地面へと叩きつけられるだろう。でも、強い力なら、もう容赦はしな い。それ程、強いなら…… 「もう、大丈夫だ」  そして、最後にこう言おう。今こそ来るべき、その時だ。 「ありがとう、さようなら。来るべき子の時、今こそ君に語ろう。私は……とても幸せだった」 「っ! 待って!」  飛ぶ。境界線を越え、空の向こうへ。この世界の向こうへ。あの世界へ。  廻れ――    世界が、廻る。 「嫌だ! 嫌だよぉ!」  その時、自分の体が煙のように、ふっ、と浮いた。頭はすっきりしていた。もう何も考えなくて良かった。 足はその身体を支えなくて良かった。ただ浮いているだけで良かった。そして、自分は地上を見た。空から、 地上をぐるりと眺めた。地上は、ぐんぐんと移動し始めた。地面が、地平線から地平線へと、ぐんぐんと飛 んでいく。地面に置かれた、山や、建物や、街や、人が、ぐんぐんと飛んでいく。それと同時にまた、空も 飛んでいった。空に浮かぶ太陽もが、ぐんぐんと動き始めた。太陽が地平線の向こうへ行くと、今度は月が 出てきて、月が地平線の向こうへ行くと、また太陽が現れた。その速さはどんどんと早くなっていき、朝と 夜がどんどん入れ替わり、光と闇が入れ混ざって、やがて灰色になり、遂に捉えられないほど早くなったそ の世界は、もう私の眼に何も映し出さなくなっていた。それは透明。色のない無の色。  終演の色。 「嫌だ、いかないで……!」  どんどんどんどん、建物も、人も、山も、川も、大地も、海も、太陽も、月も、星も、空も、何もかも、 どんどんどんどんと周っていく。どんどんどんどん、どんどんどんどん……ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐ るぐる……。全部がもう認識できなくなっていって、全ては透明になった。そうやって、何もかも見えなく なっていった。何もかも聞こえなくなっていった。声も届かなくなっていった。そして、やがて私もまた。 やがてこのまま、透明になっていくのだろう。  私が浮いていても、世界は変わりなく廻って行った。私がいなくても、世界は変わりなく生きていた。私 が役割を果たさなくても、その劇は変わりなく続いて行った。  私が居ても居なくても世界は廻る。  私はその事に、とても安心したんだ。 「私は、私は……!」  ああ、満足だ。もう思い残すことは何も無い。あるとするなら、それは最後に、少女を泣かせてしまった 事。でも、そんな少女も、大人になれば、あの時飛んだ人の事など、遠い記憶の彼方だろう。でも、それで いい。何時か、それで幸せだったと思えるのなら。そしてその飛んだ人は、とても幸せな日々だった。  ありがとう、さようなら。何て事の無い日々だったけど。  君のおかげで、ほんの少しの間だったけど。最後の日々は…… 「貴方と一緒に……っ!!」  素晴らしき日々だった。  最終話「辿り着く場所――the end of world. And ......」……終

 舞台裏

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